(gama君/明明看的見的,卻看不清楚。)
  
  まるで砂漠にいる自動販売機だ。のどが渇いている人間はひたすらそこに集まり、グラスの中にいるものを望む、そして仕方なく選んで、金を投入して、でボタンを押して、それで”なにか”がコロコロと転がり落ちてくる。
  
  例えその中で販売されているものは、水ではないドリンクでも。
  
  落ちてくるものは、ボタンの上に載っている実物とは限れていない。何が出てくる?神様しか知らないのかもしれん。だが、”のどが渇いて仕方がないから、とりあえず飲んでいこう。”っと、人々は金を払って望んでないものを飲んだ。
    
  確かに古から、価値ある情報は高い金をとる、それはその情報そのものが大きな影響をもたらすからだ、こんな情報は、ただ誰かに興味をもたらすのだけではなく、人を考えさせる。だが今になって、”情報”は何処でも見つけられる販売品、普通コンビニの中で売っている商品のように、量産している。君は、そんな何処にでもいる物に、特に何かを感じますか?(興味はあるかもしれないが、ただそれだけ)
  
  見た目は等価交換に見えて、実際は一方通行の強盗行為。自分(マスコミ)はただでたらめな情報をテレビとかネットに流して、他人からひたすら金を稼ぐ。こんな考え方は、いずれこの世界を崩壊にもたらす。
 
  何か(金、時間)を代価にして、そして君は魂を得られない。簡単に言えば、それはただ生きるために何かを食べる獣と差はない、君は”味覚”を楽しんでいない、だが、人は魂を持っている。
 
  そして、僕たちの魂はどんどん削っていく。
 
  像是沙漠裡的自動販賣機。口渴的人們會義無反顧的聚集,然後盼望著玻璃窗裡面的東西,接著無奈的做出選擇、投入硬幣、按下按鈕,接著「某個東西」才會滾啊滾的滾出來。
  
  即使那裡面販賣的,是水以外的其他飲料。
  
  而,掉出來的東西也不見得會是按鈕上面的實物。會掉出什麼東西來?大概只有天會知道。但「喉嚨實在是乾渴的受不了了,總之有東西就喝了再說吧。」人們就這麼想,於是就花了錢買了自己不想要的東西。
  
  確實從古代開始,有價值的情報(資訊)可以賣上很高的價錢,但這是因為該情報本身就擁有很大的影響力。這樣的情並不只是可以引起某些人的興趣,更可以讓人們思考。然而如今,「情報(資訊)」是隨處可見的販賣品,就像是便利商店裡面的商品一樣,被量產著。你,對於隨處可見的東西,會特別感覺到什麼嗎?(頂多有興趣,但也僅是如此)
  
  表面上看起來像是等價交換,然而實際上卻是單方向的搶劫。自己本身(媒體)只需要把五花八門的情報丟上電視、網路,從他人的身上賺取金錢。這樣的思考方式,總有一天會導致世界的崩毀。
  
  付出某些東西(金錢時間也算),然而你卻得不到靈魂。簡單來說,那與為了生存而吃東西的野獸沒有差別,你並沒有在享受「味覺」,然而人是擁有靈魂的。
  
  於是,我們的靈魂也就這麼漸漸的被削減。
  
  
  
  最近の話、再開発のことだ。えーと、これは日本語で書くのは難しいかな?(orz)
  
  マスコミは当てにならない、ただ政府と民衆の張り合いを生放送しているばかり。だがなぜ王家一家はこんな状況になったのかは一切報道していない。政府の暴行、民主のダークエイジ、王家一家は再開発の犠牲物王家一家は钉子户(?) ……中立の立場にいない情報は、社会を狂わせる。
  
  人々はいつも愚かだから。
  
  僕も同じ、はじめは”酷い政府だな”っと思って、王家一家に加勢した。ただそのとき、何か違和感を感じていた、本当にそうなのか?で、いろいろ調べて、ある文章(中文)を読んでわかった、これは消して一方の過ちではないって事を。どちらにでもミスがあった(政府の広報不足、王家一家再開発プロセスへの黙視、それと建築業者の誤解とか)、そして色んな悪意が混ぜられて、今の状況になってしまった。
  
  その文章は、ある再開発計画を勉強している大学三年生の生徒が書いたモノ。
  
  で、ある日これもマスコミの素材になるだろう?
  
  滑稽過ぎる。
  
  這是最近的話題,就是關於都市更新。嗯——這要用日文來寫似乎有些困難。(orz)
  
  完全不能依靠媒體,總是只會播送政府與民眾衝突抗爭的畫面。然而王家一家到底是為何會變成現在這樣則一概沒有相關報導。政府的暴行、民主的黑暗時代、王家人是都市更新的犧牲者、王家人是釘子戶……沒有抱持中立立場的資訊(情報),只會使社會陷入瘋狂與扭曲。
  
  因為人們總是愚笨的。
  
  我也沒有不同,一開始我也認為「政府怎麼可以這麼過分?」而站在王家人那一邊。但我總感覺到一些不對勁的地方,事實真的是這樣嗎?因此我稍微查了一些資料,在讀過一篇文章之後我才知道,這並非單一一方的錯誤。無論哪一方都是有過失的(政府的宣導不足、王家人對於都市更新程序的漠視、建商的各種誤解),然後這些錯誤被混入了各種惡意,才最後變成了這樣的情況。
  
  這篇文章,是一個在讀都市更新計畫的大三學生寫的。
  
  然而這篇文章總有一天也會成為媒體的素材吧?
   
  實在是太滑稽了。
  
  
  
  別の話。
  
  ネット上、写真と文字を使って自分の生活を記録、表現する人は確実に多くなっている、僕もその中の一人。写真を撮って、何か意味わからない文字を、写真の上に書いたりするのはもうやめたが、それも最近のことだ。元々こんな行為はただ誰にでもある表現心や自己満足、だがそれを自慢過ぎている人もあって、そしてそれを気味悪いと思う人もある。
  
  ”そんな誰にでもしていることを真似するのは、気味が悪い。
  ”そんなオナニーのようなことをして何の意味がある?”
  ”多すぎるんだよこんなタイプの人間は。”
  
  写真と文字を使う人は山ほどある、それは特別なことではないかもしれない。だが、普通でいいではないか?自己満足でいいじゃん?平凡で何が悪い?それにして、こんな軽蔑を持つ人自身も、何らかの”優越感”を持っているのではないのか?
  
  写真と文字を通して優越感を表現する人がいるのなら、それを反対し、おんなじ優越感を得る人もいて可笑しくはない。
  
  確かに、自分だけに価値あるものは、他人にとって意味は少ないかもしれないが、それは人それぞれ。まず自分を満足しないと、誰も満足してくれない、自分が感動しないと、誰も感動しない。
  
  最初は自己満足でいいんだ、僕はこう思う。その後、成長してから、他人を満足する。多くの人は自己満足の程度でとまるが、それが普通の人間。(僕もこの程度くらいかな)同時に、もしまだ成長していないときに、その自己満足を他人に押し付けたら、それはこそ本当に気味が悪いことだ。
  
  例えまねで始まったものでも、その途中で得られるものはきっとあるのだろう。
    
  
  
  來點不一樣的話題。
   
  網路上,越來越多的人使用照片與文字來記錄、表現自己的生活,而我也是那其中的一個人。雖然我已經不做照一些照片,然後在照片上加些不知所以然的文字這種事情,但那也不過是不就之前。這種行為本來就是誰都會有的表現心與自我滿足,然而也有著對這樣的表現過於自滿的人,也就會有對此感到反感的人。
  
  「模仿那種誰都在做的事情實在是很讓人反感。」
  「做那種像是在自慰一樣的事情有什麼好爽的?」
  「這種人已經太多了啦。」
  
  使用文字與照片的人數也數不清,這並非一件特別的事情。但,普通有什麼不可以?自我滿足又何嘗不可?平凡又有什麼關係?相對的,擁有這種歧視的人本身,是不是也有著「某種優越感」呢?
  
  如果有人用文字與照片來表現自己的優越感,那麼,有藉由反對這件事情而獲得優越感的人存在也一點都不奇怪。
  
  確實,只對自己有價值的東西對他人來說恐怕沒有多少意義,這也因人而異。如果我們無法滿足自己,那麼當然也就無法滿足他人,如果我們無法感動自己,自然也無法感動他人。
  
  一開始,只要自我滿足就足夠了,我是這麼認為。在那之後,成長之後再來滿足他人。大多數的人可能都只會停留在自我滿足的地步,但,這也就是普通的人。(我大概也只有這種程度)相對的,如果再還未成長健全就強迫他人接受這些自我滿足,那就真的是一件令人反感的事情了。
    
  即使是因為模仿而開始的,也肯定會有能在過程中學會的東西。
  
  
  
  2012, Mar, 29 資訊量產販賣。  
  
  うわさでは、先生は午後二時に来るんだけど?今はもう七時。
  やられた!
  
  據說,老師在下午兩點會來。現在已經七點了。
  我被設計了!
arrow
arrow

    夏德爾 發表在 痞客邦 留言(5) 人氣()